お客様の声

旗の台しのはら

今のお店で世間的に非常に高い評価を頂いています

ND:
篠原さんとはニチメンデザイン、富士工業所共に長いお付き合いをさせて頂いておりまして、色々と今までの篠原さんのヒストリーや会社としてのご意見をインタビュー取材させてください。宜しくお願い致します。

今のお店で世間的に非常に高い評価を頂いていると思っています。篠原さんが元々お蕎麦屋さんからのスタートではないのでどのような経緯で蕎麦に取り組んでいったのか、お店を作る際の考えなどお聞かせください。

 

しのはら様:
まあ基本的にはやっぱりお蕎麦が好きなんですよね。一日一回食べて毎日食べてやっぱ飽きないし下手すれば昼と晩二回食べる日もありますし、お休みの日は他の蕎麦屋さんに行って食べることも多いですよね、結構あります。 基本的にはそこですね。

この道に入ったのは、食べ物の世界に入ったのはサラリーマンを10年やってやっぱり向いてないなと、営業を10年やったんですけど、言わなくても良い事も言っちゃうのでお客さんからはなかなか買ってもらえない成績の悪い営業マンで…。

その時にやっぱりお蕎麦と寿司が大好きでもう30過ぎてましたから、寿司という世界はとても難しいだろうなと。
僕がお蕎麦の世界に入った時は東京で手打ちそばの店ってまだ本当に10件あるかないか、神田の松屋さんとか指で折ってあそことあそことあそこって言うだけの環境でしたね。

で、どっちかっていうとやっぱ蕎麦屋さんというとその頃はテレビがあって新聞があって出前の人が居てお家で自宅でカツ丼とかもりそばとかラーメンとかカレーとか取って食べるというのが僕達のあの頃のお蕎麦屋さんの位置づけと言うか利用用途と言うかであって、手打ちそばというのは本当に限られた世界で、自分で食べてもこれだったらなんとか今からやっても勝負になるんじゃないかぐらいのお店が多かったんですよね。

それで、じゃあ、自分でやってみようかという時に、高橋さんの蕎麦と出会って、手打ちでやってみようという形でこの世界に入ったのがきっかけです。

で、高橋さんのお店はその頃の弟子さんが20人とか30人とか待ってましたので高橋さんまた最初の何番目かのお弟子さんが西伊豆松崎で‘小邨‘というお店をやっていてそこで人が足りないということで小邨さんに入ったんですけど。

その前に‘京金‘さんとの出会いもありましたけど。サラリーマンの時に僕の会社が恵比寿にありまして、その頃仕事の車で通る時に、白金だったかな?‘利庵‘さんっていう蕎麦屋さんがありまして、そこで募集をしているということで33だか4だかと思いますけど行きましたらうちは年寄りは取らないという話で一括で断られたんですけど奥様がちょっと待ってと、あんたは真面目そうだからちょっと旦那に今話すからちょっと待っててということで‘利庵‘さんでは年寄りはいらないけども同じやり方で森下で‘京金‘さんという店があるのでそこを紹介するからもし行く気があるんだったら今電話をしてあげるのでどうする?という話になりまして、もうすぐ伺いました。

で、面接をして頂いてもう明日から来てくださいという話でこれが森下の‘京金‘さんとの出会いでしたね。
‘京金‘さん自体は雑誌で知っていたので、まぁ、行ってみると、とても街といい建物といい趣のある、逆に言ったら今までその溜まっていたというかこういうものが蕎麦屋じゃないと思ってたところへ自分の思っていた、絵に描いてたようなお店が面接に行ったらあった訳です。

で、ここだったらという事で、やる気になって翌日から勤めていた訳ですけど。そこの建物をやったのはニチメンさん富士工業さんでありそこからですね。
とても自分だったらこうやるのにというイメージがドンピシャで現物となって現れたのでとても嬉しかったことを覚えてますね。
食べても美味しかったですし手打ちでしたし、お客様もやはりそれなりの方がお見えになっていて、ご注文の仕方もそうですけど、当然ラーメンとかカレーとかそういったものはありませんでしたし、新聞雑誌、テレビも‘京金‘さんにはなかったですね。

ただ、それまで食べ物の世界に入ったことがなかったのでとても苦労はしましたね。
とにかくお客様から聞かれても何一つ分からないとその都度すみませんちょっと聞いてきますという感じでしたし、「おい、こっちビール。こっちに何とか」と言われてクルンと向き直るともうその注文は忘れて「おい、ビールどうした」というような感じで、毎日がもうとにかくどうしていいのか分からない様な日々でした。

 

ND:
京金さんは私共も手掛けさせて頂いて、建築から設計もやらせて頂いて。
京金のご主人(渡邉さん)非常に感性溢れる方で、最初おっしゃってましたね、周辺はお蕎麦屋さんが特に多い場所で、そこで手打ちだけでやるね、無謀だと。
色んな方から言われたとおっしゃってましたね。

 

しのはら様:
でも、あの当時で盛が一枚いくらだったかな?破格の値段だったと思いますけど、とても毎日が忙しくて今でも覚えてますけど自宅から大体通勤、‘京金‘さんまでどれくらい掛かったのかな?1時間くらいだったんですかね?

それで地下鉄の階段を上って森下町の改札を出て最初の1月か2月はその階段を上るのが辛くて。また今日も始まるのかと、あの忙しい、また、何もかも分からないで30でこの世界に入ったのは間違いだったかなという感じで駅の改札を出て階段を上って嫌で嫌でっていうのが最初の1月から3ケ月ぐらいは続いたのを覚えてますけど。

 

ND:
有名店でしたし、京金さんも名を馳せててすごく大勢のお客さんが連日おとずれていましたからね。

 

しのはら様:
あの、色んな芸能人の方も黒柳徹子さんとか樫山文枝さんとか色んな方が毎日の様にお顔を揃えて頂く様なお店でしたから、とても刺激にもなりましたけど、何ていうのかな?始めちゃったなという感じで毎日あの階段を上ったのを覚えていますけど。

でもやっぱり建物も雰囲気も素晴らしかったし、今思うとあそこは飛口で入って良かったなと。あの店だからこそ今の僕はあるんだなという感じはしますよね。
あれが他の店でお蕎麦屋さんだったらちょっとどうなってたかまるっきりわからない。

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色々感性とか自分のやりたいことが原型をとどめていた建物との出会い

ND:そういう点では出会いが始まっていたんですね。

 

しのはら様:そうですね。だからそこでもうニチメンさん富士工業さんとの繋がりはもう始まっていたんだと思いますけど。で、自分で何年か修行してやろうかなって言った時にやはり建物は富士工業さんにお願いしたいニチメンさんにお願いしたいというのはありましたから‘京金‘の社長にお願いしてという話で。で、すぐその場でこうこうこうだから力を貸してやってくれと、すぐお電話して頂いて、今この建物があって、そこから始まった訳ですけどね、自分の店は。

 

ND:物件探しも色々大変でしたよね。

 

しのはら様:そうですね。

 

ND:私自身が担当させてもらったので。とにかく篠原さんとは色々なお話を当時したなという思い出がありますね。

 

しのはら様:3年ぐらいですかね。随分周りましたけど。不動産屋さんがあれば飛び込みで入ってこれこれこういう店で…という話をして、どこでしたかね?梅屋敷ですかね。梅屋敷でまぁここでというところでほぼほぼ、大家さんの承諾も得て設計図もできてというところまでいってきたところに、この今の大森の建物を紹介して頂ける方が出るって言って、その時にニチメンさんのデザイナーがもうその建物気に入っちゃって「是非、ここでやりましょう!」と、それで梅屋敷、それを全部ひっくり返してこっちで設計をして、でも建物が古かったですから、蜘蛛の巣は張ってるし、天井は落ちてくるし、床は板張りでここできるかなということでちょっと見てくださいという話をしてまあ見て頂いたらやれるんじゃないですかっていう話でじゃあということで始まった訳ですけど。

 

ND:本当に私もその当時覚えてますけどなかなか建物としては良い建物だったんですけど、なかなか古い建物で結構かしいでいる所もあって苦労したのを覚えています。

 

しのはら様:今でもそうですね。築90年以上は、100年近く経ってると思いますからあっちこっち隙間風はあるし床は傾いてますし。ただ、やっぱり一番良いと思ったのは天井が高くて開放感があってそれこそその‘京金‘さんで見たような思っていたような雰囲気がまずある。玄関入って座ってしまえばまるっきり違った世界に入ってお蕎麦を食べれるという感じのところは20年やってますけど他のお店では味わったことのない雰囲気はここ、自分の店では味わえるかなという感じはありますね。

 

ND:ちょうどお目にかなったというか色々感性とか自分のやりたいことが原型をとどめていたというか、それが魅力でしたよね。

 

しのはら様:紹介して頂いた不動産屋の社長さんも何回か行ってるうちに「あんたの言ってるお蕎麦屋さんと私達の考えている蕎麦屋とはちょっと違うんじゃないかなと思う」と、で、私が小さい頃に、その方は二代目社長さんなんですけどここの店の迎えに法務局があってその法務局へよく子供の頃にお使いにいかされたんだけどその法務局の向かいの建物は多分今開いてるはずだからそこをちょっと見てきたらっていうのは最初だったんですね。それで玄関開けて入ってみたらちょっと異次元の天井は高いし。で、3つ、測量事務所と司法書士さんと何かもう1つ、事務所が3件入っていて一つの建物なんだけど不動産としては全部3つその事務所一緒に借りてくれた方が助かるという話でそれで合わせると26坪で厨房とそれからバックヤードとホール客席とそれぞれ1/3とって26坪なんですけどちょうど良かったという感じで成り立っている訳ですけど。

 

ND:篠原さんの所も非常に今大勢のお客様がいらっしゃるし、お蕎麦の拘りも私も都度都度お邪魔させて頂いているので分かるのですが、本当に良いお蕎麦を頂ける良いお店の一つだなと思うのですが、特にバックヤードの石臼もですね、非常に蕎麦の吟味が、本当に良くさえれてらっしゃって、その辺が篠原さんのお店の人気に繋がってた原動力、それと建物の今お話し頂いた部分との相まった感じと人柄ですかね、その辺の店の核というか、それから品格とか味覚とかそういうものがお店の核としてバランスが取れていたと私から見るとそんな気がするのですがその点はいかがでしょうか?

 

しのはら様:そのやっぱり恵まれていたのは師匠さん、旦那さん高橋さんとの出会いで。七三お蕎麦会をやりますけど結局お客様に喜んでいただけるようにと思ってまでやってきたと旦那さんはいつもそう言うんですけどもうそれだけ。それがモチベーションでお客さんが喜ぶお蕎麦を食べて喜ぶ顔を思い浮かべながら一つ一つ丁寧に仕事をすると、結局そういうことであって僕らはそれを受け継いでいる訳で旦那さんはそういった思いで生産者、蕎麦の農家の方達に付き合っているのでそれに賛同して良いそばを原料を作っていただける農家とのパイプがあって、でそのパイプを通じて素晴らしい原料が僕たちの手元に届くという事で、その点が一番違う。。違うと言ったらあれですけれども、原料はとにかく素晴らしいものがおかげさまで手に入る。農家の方々が本当に丹精込めて作ってくれた材料が入るので。まぁ、蕎麦は簡単な、単純な食べ物で水だけですから、で、挽いて、水と合わせてこねてのして、切るだけ。あとは茹でるだけですから。そういった意味では単純なんだけど奥が深いし、原料が悪ければ美味しいものができる訳も無いので、とにかく原料に尽きると。それは高橋さんが育ててきた人脈であり農家さんとの繋がりで、そういったものが僕たちの手元にも届くという事ですね。まぁ、自分のモットーというか、店の基準としてるのは心と舌に残るお蕎麦を出したいというところですね。あの、たまたま新聞に記事が出ていて、どなたか、川上弘美さんという方だったと思いますけど、その方は若い頃に高橋さん、旦那さんがまだ南長崎に蕎麦屋をだしてる時に散歩をするのが趣味で。女2人でぶらぶら歩いて、で、今日はあっち今日は西、今日は東みたいな。そこに高橋さんのお蕎麦屋さんがあってふらっと入ったらとても美味しかったと。それからはお昼はそこで食べてそこからあっち行ったりこっち行ったり、とにかくスッキリして澄んでいて美味しいと。そういったエッセイが新聞に載ってたんですね。結局、何年経ってもそれが心と舌に残ると。ただ、バブルが弾けてあの蕎麦屋さんも今はもうそこにはないんだと。今はもうあの蕎麦を食べることはできないけどもそういう風に、エッセイに残るような、その方の舌と心には残ってる訳ですよ。そういうものを目指して出していきたいという事が根っこにあります。

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篠原さんのお店が大勢のお客様からまた少しずつ来て頂けるというのが楽しみ

ND:
本当にこれは基本的に美味しいものを頂ける基本だと思いますよね。それをまさに日々繰り返して本日の営業までしてこられたのがやっぱり今の篠原さんの大勢のファンを捕まえてらっしゃる、来て頂いてらっしゃるというのは素晴らしい事ですよね。

 

しのはら様:
届いているかどうかは分からないですけど、旦那さんはそういう感じで喜んでもらえる為にやってきた。結局それが心と舌に残って、そういう人がいっぱいいる訳ですよね。ですから、まぁ、今度大森を去る訳ですけどどれだけそういった人が作れたかというか、残っているかという事は気にはなる所ですけど。

 

ND:
そうですね。今度、これだけのお店を残念ながら移転する事になられたと、そういった所も差し支えなければお聞かせ頂いて、今後の抱負なども聞かせて頂けるとありがたいな思うのですけども。

 

しのはら様:
その、出会った時から20年経ったんですけどまぁその、この建物はそのまぁ、この金庫にもあるんですけど、昭和2年て書いてあるんですよね。うちのお袋と同じですけど。齢93年、金庫は2年ですからそれ以前にこの建物は建てられていてそういう意味では約100年近い歴史が建物自体にはあると。

まぁ、僕は借りてる身ですから、何も建物自体にはできないんですけど東北の震災があった時には大家さんとしては古い建物だし、震災のというか、何かあった時に防災の設備というかはもうちょっとこれ以上はできないんだということで、これから関東で直下型の地震があればこの建物は潰れてしまうだろうし、その時にお客様が入っていて、2階が落ちてきて怪我されるようなことがあると困るのであと10年、震災3.11の時からあと10年で、篠原さんちょっと悪いけどここを立退いて頂きたいという話があったんですね。

それが今年の4月にお約束の日が来る訳で、ずっと探していたんですけど、ちょっと自宅の近くではやれるような物件がありまして今度はそちらへ移るという事になった訳です。
自宅からすぐですし、同じ旗の台で丁目が違うだけで同じところですね。
中学校もそこのすぐ側で通った、毎日通ったところなんですけど。商店街の店主の中には同級生もたくさんいますし、ですから元に戻ると言うか、古巣に帰るというか、そこで再出発をすることになったわけですけど。

20年手打ちでやってきたんですけど、職業病というか、体質もあるんでしょうけど手の関節があんまり具合が良くなくて。お医者さんに言わせるともってこのままの生活と言うか仕事を続けるともってあと一年でこの手は本当に日常でも、日常生活でも使えなくなりますよ。

という話があったものですから。そこでニチメンさんの渡邉社長にも相談してこういった機械もうちでその品揃えがあるということで、実際にそれを使ってご商売されてるお蕎麦屋さん何件か見せていただいて、富士工業さんのお口添えもあって忙しいところ、営業中だったんですけど見ていただきまして、で、食べて、これだったらなんとかというときにさっきも申し上げましたけど、原料材料は高橋さんの原料、農家さんが育てた原料を石臼で挽いて振ってというところまでは全く今までと同じ。

ただ後はニチメンさんの機械を使って製麺麺体にし、お客さんに提供するという形で何とかこの仕事、蕎麦屋が続けられるんじゃないかというところで旗の台で店を出すことになった訳ですね。

 

ND:
本当に楽しみですね。また今回篠原さんのお店が大勢のお客様からまた少しずつ来て頂けるというのが。

 

しのはら様:
辞めないで何とか蕎麦屋を続けていけるという事だけでも良かったと思いますし、違った形で心と舌に残せるものが出せるか、ただそれはその主人の考え方と言うかやり方と言うか気の入れ方と言うかそれ一つでそういったものを使ったとしても喜んでいただけるようなものは出せるんじゃないかというところでやる気になったわけですけど。

これがもしそういった製麺機じゃなければどうなってたか分かりませんけど、まぁ、それはニチメンさん富士工業さんのやはり何か縁を感じるというか、またお世話になるんだなぁ、という感じで、やっていくかと。

齢61で借金をしてやってみるかという気持ちになったわけですけど。

 

ND:
本当に長い歴史の中で今回も移転するにあたっては色々と物件も本当に足繁そわそわしい中、私もまた同じ思いで見させて頂いて、篠原さんの思いはずっと長年の中で培われていた事もあるのですごく理解出来やすかったですし、篠原さんが事業を継続して頂ける事自体が非常に嬉しいですし、これは私共だけでは無く、一番嬉しいのはお客様だと思いますし、篠原さん自身が今まで磨いた経験とかが非常に幅広くおありなので、その辺を継続して頂けるのは本当に良いですね。楽しみが残って嬉しいですね。

 

しのはら様:
その‘京金‘さんの時にニチメンさん富士工業さんに社長がこういうことだから力になってやってくれって電話一本かけてすぐその場でかけてくれたのもとても嬉しかったし、あれからここまでこれて、また新たなスタートを4月から切るんだという事で、身の引き締まるというか、頑張らなきゃいけないんだなという気持ちですけども。

でもなんとか今まで培ってきたものそれを盛り込んでいけば手打ちではなくてもやっていけるんではないか、お客様の心に残るものが出せるんじゃないかというところはかなり、まぁ、かなりと言ったら語幣があるかもしれないですけど、まぁ、なんていうか、手応えと言うか今までやってきたことをお客様の顔を思い浮かべながらまたやるぞという気持ちなんですね。

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僕らの後の世代にも、手打ち蕎麦が受け継がれてほしい

ND:
あの、本当に、手打ちのお蕎麦の本当に先駆けの時代にスタートして篠原さんが大森の地で長年培ってきたものが今度また篠原さんの出身地の町に戻って新たにスタートを切られるというのが、本当に色々思い起こすと色々人の繋がりとか、それから繋がってきた不自然じゃない流れが、それから歴史を感じます。

その一端に我々もお役に少しは立てているのかなという事と、ご縁をつなぐお役目も多少は出来たかなというところですね、篠原さんにその様におっしゃって頂けるのは我々にとって大変光栄なことでして、これからも引き続き我々が出来る許容範囲で色々とお手伝いをさせて頂きたいと思いますし旗の台のお店の方も是非このインタビューの後にでも詳しいご案内をですね。

 

しのはら様:
本当に本当に、電話、‘京金‘さんの社長電話1本して頂いてあれからですか。
あれから始まって今に至ってはあんなサラリーマン30過ぎてから食べ物の世界に入ってやれるんだろうか、本当に不安でいっぱいでしたけど、皆さんの力を借りて自分の気持ちがある程度形になってその中で色んな方との出会いもありましたけど、やはりはニチメンさん富士工業さんとの出会いが思っていたものを形にできた。とにかくこの建物もそうだしまぁ今の大森しのはらはこの建物ありきで半分来てるのでそれを思ってたものが形にして頂けたのがニチメンさんであり富士工業さんであり、あの出会いがなかったら多分、うまくいっていなかった。普通のお蕎麦屋さんになっていたと思います。とても、何ていうのかな。僕は時代小説大好きで、柴田錬三郎や池波正太郎さんとかが大好きで、酒のつまみはもっぱらそっちの方なんですけど。そういった方がふらっと立ち寄ってちょっと自分のアイデアを練る時に「しのはら行こう」みたいな蕎麦屋を作りたいなぁというのが最初だったんですね。頭の中でそういうイメージがあったんですね、池波正太郎さんが入ってきてちょっと行き詰った時に蕎麦屋行って酒飲んで、昼酒をあの人は召し上がって、本の中にも昼に酒飲みたくなったから僕は蕎麦屋入るっていう一説がエッセイの中にありますけどそういった佇まいを作りたかったそのように自分ではできないけども誰か手を貸してくれないかという時にニチメンさんがこういうものをやりたいこいうものをしたいって言うとニチメンさん渡邉さんが、こういうものがあります、こうしましょう、これでどうでしょう、という形で二人三脚でやって来たんです。それで、なんていうか、形になっちゃった。出来ちゃったじゃん。という感じなんですよね。

 

ND:
これはもう篠原さんの感性、やはりそのものの考え方、捉え方、これがあることで我々が形に出来るお手伝いを出来たという事で、これがご理解がなければ、我々がこうしたい、あぁしたいという訳にもいかないですので、そこは篠原さんの考えを形に出来たよと言ってくれたのが本当に我々はありがたい。

京金さんも、実は創業者の私の父の時代で、京金さんのお父さん、先代さんからのお付合いなものですから、まぁそれを遡ると本当に古い、これもご縁があるなと、こういう風に思いますね。

 

しのはら様:
それが年々と受け継がれて僕らの後の世代も、また、今は手打ち蕎麦ずいぶん増えてきましたけど、そういったところにいい意味でも悪い意味でもね、受け継がれていけばいいなあと思いますよね。

お蕎麦という文化、お蕎麦というのを通じて社会というか世間と繋がってるんだという気持ちがあるので蕎麦というのを通じて社会世間と自分はつながって生かされてると言うか何とか生涯を日銭を稼がして頂いてるという感じがあるのでそれを誰かが受け継いでくれればいいなというのは思ってますね。

 

ND:
ありがとうございます。本当に長時間にわたってですね、インタビュー本当に頂いてありがとうございました。

これからの本当にオープン間際のインタビューというところで大変お忙しいお時間の中ご協力頂いてありがとうございました。いずれにしてもお店の移動された後のですね、お店の事も踏まえて色々と情報をですね、少しずつ皆さんにお出ししていける様にお手伝いを我々の方もしていきたいと思っておりますので、また一つ宜しくお願い申し上げます。

 

しのはら様:
色々お世話になりますけれども、ご迷惑おかけしますが宜しくお願い致します。

 

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お客様情報

蕎麦しのはら
〒142-0064 東京都品川区旗の台5-2-5 メゾンボア1F
TEL 03-6426-4138